穏やかな最期
先日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「わが家で穏やかに最期を導く訪問診療医 小澤竹俊」を見ました。
理想の暮らしをつくる会の中井正信さんが知らせてくれました。 「穏やかに最期」ということが、心に残りました。
わが家でなくては、穏やかな最期は迎えられというものでもないと思っていますが、人が穏やかになるというのは、幸せの現れにつながってくるかなと思いました。
小澤さんは、彼自身の願いとさまざまな患者さんとの経験のなかで、「人間とはどういものか」を探究してきたのではないでしょうか? 人は死が免れないと知ったとき、心身についてどんなことを思い巡らすのでしょうか・・・ 出てくる気持ちはいろいろだと想像できます。
身近な家族も同じじやないかな。
小澤さんも医療のなかで、「死んでほしくない」と言う家族、 「もう死なせてくれ」という本人の間で、解けぬ難題を抱える時期があったらしいです。
自分は患者の側に居て、何も出来ない、弱さと無力。
でもそんな自分が側に居てもいいと知ったというのでした。 (自分の最近の体験が蘇りました。不整脈が夜中に出て、止まらない。かといって、それに打つ手はない。看護師の女性が「何もしてやることがない」と言いながら、しばらくぼくの側にいてくれました。その女性の気持ちが嬉しかったんです)
ガン末期を自宅で迎える夫に、奥さんは何とか栄養のある食事を用意する。
夫は、「いや今は食べたくない」と手でその気持ちを表していました。
その時、画面で、本人が冷たいアイスキャンデイを食べる映像が一瞬写りました。 「ああ、美味しいだろうな」と唾を飲みました。
それはともかく、小澤さんはこのご夫婦の気持ちを聞いていきました。 夫本人に、奥さんの事を聞くと「やさしいけど、きつい」と応えました。 奥さんはその後、元気になって欲しいと、どこかで夫に強いていた自分に気がつきました。
「ああもういいかな、食べさせようとしなくても」
奥さんから強いるものが無くなって、夫も楽になったようでした。 最期は、まだ話せるうちに、自分の人生で大事にしてきたこと、家族に残して置きたい気持ちなど、専門の心理士が聞き取りました。 それを、年の瀬、家族が集まっているとき、奥さんが読み上げました。 何日か後、ご本人は穏やかに亡くなりました。
テレビでは、在宅診療医の小澤さんの焦点が当たっていましたが、当然、医師一人の努力では、穏やかな最期というのは迎えられないだろうな。
本人、身近な家族、隣人、医師、看護師、介護師、ケアマネジャー、行政の人たちなどなど・・・ 仕組みを整えるのはもちろん、一番の焦点は社会が、その本人が「穏やかな最期」を迎えられるように、本人や家族の気持ちに関心が起こるような社会の空気が欠かせないと思います。
「穏やかな死に方」もありますが、「穏やかな生き方」というのもあると思います。むしろ、こっちが大事かな。
「穏やか」というと、人の外に現れてくる姿をとらえることになりやすいかな。 ここで、もっと観察したいのは、穏やかさが現れがでてくる内面の元がどんなものかということが大きいと思います。
「人間とはどんなものか」
生まれたときから、いや生まれる前から、自分の心身はどこまでも健康正常になっていこうという作用で生きているのではないか?
例えば、人は共に生きていこうと思うと思わざるにかかわり無く一人では生きていけないことを知っている。 よく孤独死が悲惨だと言われる。そうかもしれない。そういうことが多いかも。 一人、誰にも看取られず死んでいく人のなかには、一人では生きていけないと知っていて安心して、他の人にかかわりなく、自分の好きなことに没頭して穏やかに死んでいった人もいるのではないだろうか。 このときの安心って、人が人に何かを強いたり、強いられたりしない、というのも大きな要素だと思います。 この点については、強いているとは自覚してなくとも、よくよく静かに観察しないと、浮かび上がってこないこともあります。
個人でも、社会でも。
社会として、「穏やかな最期」というのは、本人や家族、隣人、関係者が、本人と気持ちを確かめ合いながら、日々つくっていくものかもしれない。 それらの気持ちが、どこまでも健康正常になろうとする働きに適う方向へ、探っていくことになるかな。 社会がそういうことに一番関心があるようでありたいと思います。
そのためには、その本人はもちろん、関わっている立場の人が自分の立場から、「穏やかな最期」「穏やかな生き方」があるがままに、現れてくるようなところ、見ていけないだろうか。
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