朔風払葉
今の時期、歳時記では「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」というらしいです。
朔風(さくふう)とは北風のことで、冷たい木枯らしが紅葉した木の葉を落としていく頃という意味です。
鈴鹿の街路樹は、落葉の前にはやばやと枝払いがされてしまっていますが。
そんなころ、理想の暮らしを語る会有志の寄り合いがありました。
先日、メンバーの竹本さんの義父が亡くなったときのことが話題になりました。
竹本さんは、中井さんに葬儀のこと、相談しました。
「中井さんが義父の葬式の段取りをしてくれた。やってもらって、本当に助かった。
心の底から有難かった。
安くできるように色々手を打ってくれたのだが「婆さんの気持ちが一番大切だから」と、婆さんの気持ちに適うようにしたら、と言ってくれた。
一番の焦点、合わせ処を人の気持ちに合わせる、中井さんの姿が印象強くに残った。
人に求める・人に応える、やり取りの中に人としての豊かさが感じられていくのかな」
寄り合いで、竹本さんにお父さんが亡くなる前の様子を聞きました。
四日市にある老人施設。遺漏をしていて、吸引の世話もしてもらえるところだったようです。
「いつからか、しきりにありがとうと言うようになったんだよね。亡くなる前日、祖母や妻が帰るとき、ありがとう、と言って別れた」
翌朝、脈が弱くなっていると言う知らせを聞いて、駆けつけたときは、息を引きとっていました。
施設に入っていたけど、祖母や娘(竹本さんの妻)が見舞いに来ると、手を摩ってもらったりして、安心していたようだったといいます。
「老い方や死んでいくいき方はその人ならで、高齢者といってひと括りにはできないよねえ。一人ひとりの個性があるわけだし、家族や親しい人もいる」
「安心して、老いていける、死んでいける、ということが大事だよね」
「そうだよなあ。高齢者については、イベントやったり、施設を作ったり、ハード面の支援のフローチャートはあるけど、それが一人ひとりの気持ちを受け止められているかどうか」
「現場でやっている身近な人から、実際を聞くと、精一杯やっていて、頭が下がる」
「そういう直接、ケアにかかわる人が、ゆとりがあるかどうかというのもあるかな」
「地域として、老年期から、介護が必要になり、死んでいくというプロセスで、どれだけ一人ひとりの人生が大事にされているか、そこからのお付き合いがお互いできるようになっているか」
「けっこう、田舎ではお互いに見合っていける付き合いというものがあるよね。地域医療にかかわる人が、都市のなかに田舎をつくったらと提言しているね。それを鈴鹿のある医師に話したら、街のなかで、難しいと言っていた。そこ、もっと、研究したいな」
「竹本さんのお父さんは、いろいろな条件を考えて、四日市の施設にいくことになったけど、近所に看取りの家みたいなものほしいなあ」
「そうだよね、自宅ということもあるけど、そういう場がね」
「ちょっと、話が飛ぶみたいだけど、地域のなかに、年寄りが気軽に寄れて、よもやま話とかできるところあったらいいとおもわない?」
「うん、沖縄では昔の家は玄関がなくて、縁側から出入りしていたとか。縁側にお茶などが用意してあって、通りかかった人同士、やあとか言いながらおしゃべりができたとか」
「けっこう、田んぼの辺を散歩している人多いよね。はたけ公園の周りにもよくみかけるよね」
「道路に面しているところに、縁側みたいな座るところできたらいいなあ」話は、どんどん膨らんでいきます。やるか、やらないか、というより、ふだん思っていることがどんどん出てきます。
透析で生きながらえている金治さん。
こんど、足の血管を広げる手術をするのだそうです。
「ぼくは、海洋散骨を請け負ってやりたい」
「海へ出れるの、金治さん?」
「そりゃあ、大丈夫。航海士の資格は持っているし、河芸港の会員でもあるんでね」
金治さんのその願い、最近ずっと言い続けています。
叶えてやりたいなあ、誰ともなく・・・。
「はたけ公園に縁側みたいな、一服できるところ作ったら、金治さんがやって来た人とそんな話もできたらいいかもね」
もうそろそろ、一年の終わり。師走を前にして、こんな話、盛り上がっていいのか、不謹慎なのか。どうなんでしょうね。