「老年期の意味 目標なく生きる」
ここ数ヶ月、毎週木15曜日、「理想の暮らしを語る会」の有志が会の進み方について、いろいろ研究する機会をもっている。 きのう、9/15(木)の午後、何人かが鈴鹿カルチャーステーションのコミュニティカフェに寄って、9/11(土)の公開講座の感想や、来月8日「自分らしく生きる」というテーマで開く公開講座の話などしていた。
寄っていたのは、金治さんと岸浪和子さんと宮地。 気がつくと、金治さんと和子さんは、来月、みんなの前で「人生を振り返る」という切り口で話すことになっている。
金治さんは60過ぎて、人工透析をしており、本人も「病気の百貨店」と触れ回っている。 「何、話すかなあ。ぼくは、最近サイエンズ研究所のゼミやこのコミュニテイのミーテイングに出ながら、身体はいろいろあるけど、気持ちや心の面で、何か豊かで、生き生きしている。そんな実感話すかなあ」
和子さんは、70過ぎて不治のリュウマチと付き合う暮らしだけど、まだまだ意気軒昂。 スポーツガーデンのプールで水中ウォーキングで、農学者の高齢の女性と仲良くなって、もっと人生の話をしたいというつきあいをしているとか。 「リウマチになったということで、かえって人生の意味が変わったのね」と。
「あのね、この間、山極寿一さんというゴリラの研究者が、「老年期の意味・・・目標なく生きる」という文章書いていて、面白く読んだんだ」と宮地。 この人も、拡張型心筋症で身体を思うように使えなくなっている。
そんなこと話していたら、野尻四郎さんがカフェにやってきた。 どこの席に行くのかなと見ていたら、ぼくらの席に加わった。
「調子はどうよ」 「まあ、まあかな」 「抗がん剤は飲んでいるの」 「控えめにね」 身体は痩せているけど、ふつうに話せるし、ぼくらの話に加わってくる。
「いったい、四郎さんのガンって、どんな風に転移してきているの?」 「そうやな、はじめは腎臓、それから肺にいって、首の後ろの腫瘍、脊椎、すい臓、肝臓かぁ」 「そうなん」一同、ため息。 「そんなんでも、こうして、身体はガンに蝕まれていても、気持ちはふつうに、暮らせている、不思議だね」 「まあ、身体のエネルギーが弱くなっている分、ガンもそんなに増殖する元気がでないのかもね。医者も、そういう状態にあること、驚いていたよ」
なんか今日の寄り合いは、先行き長くないいくつもの病気持ちの展示会のようだ。 でも、何となく、しみじみした気持ち。
「あのね、「老年期の意味・・・目標なく生きる」っていうの、こんなこと書いてあるんだ」
--しかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。 青年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを与えることにこそ大きな価値がある。 人類の右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが、その明確な目的意識はときとして人類を追い詰める。 目標を立て、それを達成するために時間に沿って計画を組み、個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。
目的が過剰になれば、命も時間も価値が下がる。その行き過ぎをとがめるために、別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。老人たちはただ存在することで、人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
その意味が現代にこそ重要になっていると思う。
四郎さんが口を開いた。 「あんね、前回、この寄り合いに来ただろう。帰るとき、誰かが、また来てな、と言ってくれた。言ってくれた人の顔を見たら、どの人も人生を積み重ねてきて、いぶし銀の表情してるなぁと感じたんよ。また来ようと思ったんや」